三世紀、魏の宮廷で弁舌で知られた士が、容色ゆえに妻を迎え、そう公言した。その冬に庭で彼がしたことだけが、彼の言葉のどれよりも長く残った。

この物語について

主な根拠は『世説新語』「惑溺」篇の一節、劉孝標の注が引く散佚した『粲別伝』、そして裴松之の『三国志』注が引く何劭『荀粲伝』である。いずれの史料も妻の名と年齢を伝えないため、本稿では触れていない。引用した行為と言葉はいずれも上記の史料に基づき、末尾の評と情景の再構成は筆者の解釈であって、史料の記載ではない。

真冬の庭で

その場面はひと息のうちに収まる。三世紀の真冬、荀粲の妻は高熱に苦しんでいた。彼は庭に出て、夜気の中に立ち、自分の肌がすっかり冷えるまで待つ。それから部屋へ戻り、妻の身体に自分の身体を押し当てて熱を下げようとした。五世紀の説話集『世説新語』は、この行為のすべてを一文で記し、医学にも礼儀にも触れず、すぐに結末を添える。妻は死に、彼もほどなく後を追った。そのため世の人に嘲笑された、と本文は淡々と書く。

誰とでも論じ合った息子

荀粲、字は奉倩。曹操に仕えた策士荀彧の子であり、魏の宮廷でもっとも自己意識の強い世代に育った。兄たちは儒学を論じたが、彼は道を語ることを好み、居心地の悪い結論を押し進めた。孔子が性と天道を語るのを聞けなかったというのなら、六経は残っていても聖人の籾殻にすぎない、と。反論する兄と彼は論じ合い、ついに譲らなかった。さらに実の父を従兄より下に評価し、それを口にした。兄たちは怒ったが、何も変わらなかった。

太和の初め、二二七年ごろ、都に出た彼は名理に長けた傅嘏と論争し、噛み合わない二人の間を裴徽が取り持って、やがて親しくなった。夏侯玄とも親しく、二人に面と向かってこう言った。世俗の功名ではあなた方は私に勝るが、見識では私に劣る、と。簡傲で常人と交わらず、付き合うのはその時代の俊傑だけだった。

「色をもって主とすべし」

結婚についての意見も同じように率直だった。荀粲は婦人の才智は論ずるに足りず、色をもって主とすべきだと考えた。彼は驃騎将軍曹洪の娘を娶り、記録は彼女を美しいと伝える。衣装も帳も豪華を尽くし、彼は彼女の部屋も時間も独占した。現代の読者はここで顔をしかめる。史料も彼をかばわない。婦人の知を退けたその同じ人物が、容色によって妻を選び、しかも公言したのだ。

「佳人は再び得難し」

やがて妻は病を得て死んだ。納棺の前に傅嘏が弔問に来ると、彼は泣いておらず、しかし見るからに心を砕かれていた。傅嘏は率直に問う。才と色を兼ねる者は稀だ。あなたは才を捨てて色を取り、それは得やすいはずなのに、なぜこれほど悲しむのか。荀粲は答えた。「佳人は再び得難し。過ぎた者は傾国の色ではなかったが、容易に出会える者でもなかった」。嘆きは止まらず、一年余りで彼も死んだ。二十九歳だった。葬送の夜、集まった者は十数人、いずれも同時代の知名の士で、その哭声は道行く人まで動かした。

なぜ「惑溺」に置かれたのか

『世説新語』の編者はこの話を「惑溺」の門に置いた。情に溺れる者のための部門である。そして、そのために世にそしられた、と一言添えた。同じ段には、婦人の徳は称するに足らず、色をもって主とすべしという彼の言葉と、ある名士の評も残る。あれは興に乗じた言葉であって盛徳の言ではなく、後人がこの一句を誤解しませんように、と。その注釈こそ、伝統が彼を救おうとしたやり方だった。主張そのものは弁護できない。しかし庭でしたことは、主張ですらない。明代の『情史』は彼を「情痴類」に収めている。史料が本当に残したのは模範的な夫婦ではなく、一人の男の姿である。その身体は、彼の哲学が言えなかったことを知っていた。冬の冷気を高熱に添えること。それが彼にできる唯一の助けだったから。

出典と参考資料

  1. 世說新語·惑溺(維基文庫)
  2. 三國志·魏書十·荀彧傳(裴松之注引何劭《荀粲傳》,維基文庫)
  3. 情史·卷七·情癡類(維基文庫)
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